2005年 奈良そして明日香へ

明日香村・高松塚古墳近くの風景


’05.10/8〜10の連休に、またまた京都方面へ行ってまいりました。8日はちょっとした用事をこなし、9日朝、奈良そして明日香を目指して京都を出発しました。

秋 篠 寺

最初に寄ったところは奈良市の入り口を右折して、賑やかな西大寺の先にある秋篠寺(あきしのでら)。紀元776年、光仁天皇の勅願により平城京の北西部に秋篠寺は建てられたが、1135年に兵火にあい講堂その他数棟を残して伽藍は焼失、また明治初年の廃仏毀釈により広い境内の大半まで失った不運な寺である。
素晴らしい苔庭に見とれていたら、これが金堂跡だと後でわかった。他にも東塔や西塔跡の礎石があちこちに残っている。



これが国宝の本堂。もともとは焼け残った講堂。鎌倉時代にかなり改修されたようだ。なお、この本堂内に本尊の薬師如来像や日光菩薩・月光菩薩像、そして秋篠寺で最も有名な技芸天が安置されている。(残念ながら撮影禁止)

朱 雀 門

秋篠寺を後に車で5分ほど走ると平城京の跡に到着。写真は1997年に復元された「朱雀門(すざくもん)」という平城宮の正門。復元工事は1991年から始まり、1997年10月17日に完成、一般公開された。ここでは外国使節の送迎や、天皇の祝賀行事などが行われたという。
余談になるが、この朱雀門を建築した竹中工務店のHPによると、設計図はもちろん絵のようなものも無く、いろいろな書物から推定し復元したとのこと。また、現代の建築であるので建築基準法をパスしており、耐震のためすじかいも入っている。さらにコンクリートは500年は持つものを使用したとのことだ。



朱雀門の北側には「太極殿」が復元中。2010年が平城京遷都1300年とのことで文化庁が2001年より開始した事業。上の朱雀門もその一環。詳細は こちら



南側は朱雀大通り。幅75mの大路が延々4km続き最南端には羅生門があったという。

一 言

人によっては、このような文化遺産の復元を税金の無駄遣いと言う方もいるかも知れない。また、なんでも古いものでなければ価値が無いと考えている方もあるだろう。そうだろうか。まあ、確かに世は世界遺産ブームなのだから、あわよくばこれを集客の目玉にしようと考える輩もいるだろうが、私は文化財の復元大いに結構と思っている。
人類が今あるのは我々のご先祖が綿々と営んできた過去の歴史があるからで、その歴史の証拠を残すことは今を生きる人類の義務だと言えないだろうか。人類がこれから戦争や大きな災害で行き詰まったとき、必ず過去にも同じような事があったはずだから、その過去を紐解き、どのように乗り切ったのか、必ず教訓になる時がくると私は信じている。歴史学や考古学とはそのために存在する学問だと思う。
それから今、建てられた建物などは確かに新しいものであるが、思い出してほしい。東大寺も薬師寺もそしてあの法隆寺でさえも再建されたものなのだ。それが何百年、何千年も経つと充分に価値のある建物になることを。この1997年に復元された朱雀門や2010年に建てられる太極殿もあと1000年後には平成時代に再建された建物として国宝になっているかもしれないのだ。

室 生 寺

奈良の町を後に大和郡山ICから名阪国道を東に進み、針ICで降りて室生へ向かう。目的地は女人高野で有名な室生寺。写真は室生寺の表門。

室生寺の沿革

大和平野の東方、奥深い山と渓谷の続く室生のあたりの一帯は、太古の火山活動によって形成された幽邃な場所で、その中心が室生山です。室生は室・牟漏とも書いていずれもムロと読ませ、土地の人もムロと言いますが、ムロとはミムロという神の坐ます山のことで、大和で最も知られたミムロの山に美しい円錐形の三輪山があります。

 室生山は三輪山よりやや切り立った円錐形の神山で、ここに奈良時代の末期、皇太子の山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒の祈願のため、行いの正しい五人の僧がこの聖なる山中で祈祷をして優れた効果がありました。そうしたことから国家の為に建立したのが室生寺です。伽藍の造営に当たったのは興福寺の高僧修円で、この人は空海や最澄に並んで平安時代初頭の仏教界を指導する高名な学僧でありました。

 以後室生寺は、興福寺の法相宗を始め天台・真言・律宗などの高僧を迎え、山林で修行するかたわら各宗を勉学する道場として、仏教界に大きな役割を果たします。しかしその一方では、谷を走る清流や、龍が住むという山中の龍穴などから龍神の信仰が生まれ、これに雨乞いの祈願をするため、平安前期以来度々朝廷から勅使が派遣されて、龍神の室生の名は広く世に知られるようになりました。

 また奥深い深山という室生寺の環境は、密教の道場にふさわしいことなどから、次第に密教的色彩を強め、鎌倉期には真言密教の最も重要な儀式を行う灌頂堂と、弘法大師を祀る御影堂を奥の院に建立します。しかし真言密教の根本道場である高野山が、厳しく女人を禁制したのに対し、室生寺は女人にも開かれた道場『女人高野』として広く親しまれるようになりました。

室生寺公式HPより    


仁王門。向かって右側が阿像、左側が吽像である。2人あわせると阿吽(あうん)となる。



金堂(国宝)。内部には本尊である釈迦如来立像を始め、十一面観音など国宝が4件、重要文化財が6件安置されている。撮影は出来ないので写真は室生寺公式HPでご覧いただきたい。



室生寺五重塔(国宝)。平成10年9月22日の台風7号によって杉の巨木が倒れかかり、五層すべてで背面のひさしが破壊されるという大きな損傷を受けた。しかし、心柱が直撃されなかったので塔に傾きが生じなかったことや、軒の部分で大方の衝撃が吸収されたことなどが幸いして、全壊は免れ、平成12年9月に修復が完成する。



五重塔からさらに奧、勾配の急な石段を登ること約20分で奥の院到着。暖かな陽気だったので、たっぷり汗をかかせてもらった。



これは奥の院まで登る途中にあった杉の根が巨石を抱えた様子。まるでカンボジア・アンコールワット遺跡群にあるタプローム遺跡のよう。

橿 原 神 宮

室生寺を後に、一路明日香方面へ向かう。目的地は今夜の宿がある橿原市。途中桜井市の道路が渋滞したので思い切って明日香村へ入り迂回路をたどったのだが見事にミスコース。明日香村の中の狭い道をウロウロしているうちに、なんとか橿原神宮までたどりつく。

橿原神宮の沿革

橿原神宮は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された。第一代の天皇であり我が国建国の始祖となられた神武天皇と、媛蹈韋鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后が祀られている。 神武天皇は、皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降られた日向(ひゅうが)国高千穂の宮におられたが、天下の政治(まつりごと)を行うべくはるばる東遷の途に立たれた。途中幾多の困難に遭われたが、ついに大和の国を中心とした中つ国を平定され、畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて、国の基をたてられた。

橿原神HPより


時間があったので、神宮を参拝する。ちょうど何かのイベントをやっており駐車場は満車だったので道路へ停めるが、皆んなで停めればこわくない感じ。



これは本殿手前にある外拝殿。その先には内拝殿、幣殿 、本殿とあるのだが、下々(しもじも)はここまで。



境内にあった旧日本帝国海軍の航空母艦「瑞鶴(ずいかく)」の碑。先日この碑が登場する松本幸四郎主演のTVドラマ「遠い約束」があり、カミさんの希望で寄ってみた。

空母瑞鶴について

空母瑞鶴は昭和16年9月26日川崎造船所で竣工。基準排水量25,675トン、全長257.5メートル、飛行甲板全長242.2メートル、出力160,000馬力、速力34ノット、兵蒼12.7センチ高角砲12門ほか、常用搭載機72機、予備機12機。翔鶴型の2番艦として完成した「瑞鶴」は風雲急を告げる中ただちに第五航空戦隊を編成し太平洋戦争に突入した。緒戦の真珠湾攻撃ではパイロットの技術未熟を理由に主として地上攻撃を主任務としたが、続く珊瑚海海戦ではヨークタウンを小破させレキシントンを撃沈した。我が方も「祥鳳」を喪失し、「翔鶴」が大破したが「瑞鶴」はスコールに入り無事であった。
僚艦「翔鶴」の修理のためミッドウェー海戦には参加できず4隻の主力空母を喪失した海軍にとっては虎の子の空母となった。再び南方に進出した「瑞鶴」は第二次ソロモン海戦に続いて南太平洋海戦に出動し、「翔鶴」「準鷹」と共同して「ホーネット」を撃破(後潜水艦が撃沈))「エンタープライズ」を撃破した。我が方も「瑞鳳」が中破し、「翔鶴」が大破したが「瑞鶴」はこの時も無傷であった。
機動部隊指揮官となった小沢中将は飛行隊の錬成に勤めたが、開戦当初から熟練パイロットの消耗が激しく練度の不足は如何ともしがたかった。昭和19年6月マリアナ諸島に接近する米機動部隊を迎え討った小沢艦隊であったが、レーダーと近接信管による迎撃に遭い攻撃機の3分の2を失い、また開戦以来の僚艦「翔鶴」と新型空母「大鳳」、改装空母「飛鷹」を喪失した。
内地に帰投し空母航空戦力の再建に勤めたが米軍の攻勢は止まるところを知らず、戦艦「大和」「武蔵」を中心とする栗田艦隊のレイテ湾突入作戦の囮として出撃。ハルゼー機動部隊の引きつけに成功したが米艦載機の集中攻撃を受け昭和19年10月25日エンガノ岬沖で他の空母3隻とともに沈没した。

明治・大正・昭和にわたる帝国海軍艦艇HPより


この日の宿は橿原市で一番大きい「橿原ロイヤルホテル」に宿泊する。インターネットの「ダイワロイヤルホテルズ」から大人3人、1泊朝食付きで予約したのだが、部屋は洋間のかど部屋で、ゆうに5人くらい泊まれそうな広い部屋。地階には温泉もあり、これで1人8100円とは大満足。



ホテルの前は近鉄・橿原神宮前駅、駅の向こうに畝傍山が見える。橿原神宮も歩いて5分の好ロケーション。



夕食は橿原の町をぶらつき「和楽心」という和食料理店で刺身定食(2800円)をオーダーする。ところが、客席中央には4つのいけすがあり、中には泳いでいるイカがいたりしていたので、思わずイカの活造りも注文してしまった。



これがイカの活造り、2900円也。げそが残ってしまったので最後にサービスで天ぷらにしてしてもらい、これまた大満足。

高 松 塚 古 墳

翌日は雨、午後には帰らなければならないので、今回は高松塚古墳のみとした。(残念) 実は、20年ほど前に一度来たことがあるのだが、そのころは発見から数年後の状況でおよそ観光地らしく無く、車も農道の空き地に停め、外側を見ただけであった。今は、高松塚古墳周辺は、国営飛鳥歴史公園高松塚地区になっており、飛鳥歴史公園館などの施設が整備され、隔世の思いがする。
高松塚古墳は直径18mの小さな円墳だが、石槨[せきかく]内に描かれた壁画(国宝)で有名。青竜、白虎などの四神[ししん]や、女子群像、星座が極彩色で描かれた壁画は、1972年(昭和47)に発見された。石室は密閉されているが、隣の高松塚壁画館で、精巧な模写や石槨の模型が見られるようになっている。
写真は古墳の前にあった昔の写真。昔来たときはこんな感じだった。



ところが最近雨水や虫が石室に侵入、カビが発生したため壁画の傷みが激しくなり、防水とカビの発生を防ぐため、このような外観になってしまった。ただこれだけでは対処療法にすぎないため、文化庁は2007年1月に石室を解体し、壁画を別の場所にうつして修復することとしたが、今、その修復する場所をめぐって明日香村と文化庁は対立しているそうだ。



これは↑の写真にある覆いの中の様子。カビの繁殖を抑えるため石室の廻りを冷却、温度を15℃くらいにおさえている。

OMAKE

明日香村・高松塚古墳へ行く途中の写真。国営飛鳥歴史公園高松塚地区にあり、のどかな里山風景である。山之辺の道とは違うが、こんな感じではないかなと想像をめぐらした。右側にある竹林が(半分切れてしまった)丁度、昔の高松塚のようだ。
このあと、石舞台や飛鳥寺の前を素通り!して京都へ帰る。一休みした後、佐久までいつもの通勤高速?をこなし7時30分に帰宅。今回の走行距離は軽く1000kmを越えてしまった。

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