2006年 安土城址&彦根城・見てある記

2006.2/12 滋賀県は安土町にある安土城址と隣の彦根市にある彦根城を見てまいりました。昔から歴史に興味があり、結構、城や城跡を見て歩くのは好きなんですね〜。写真は安土城址から見た琵琶湖方面。

安土城址

これが駐車場から見た安土城址、案内標識や駐車場が無ければただの山。



大手門跡から続くのが大手道、車はここまで。



大手道を登ってすぐ左に羽柴秀吉の屋敷跡。



これが復元図。なお、向かい側には前田利家の屋敷跡が。



大手道の石段。山城なので結構な角度。



石段のあちらこちらにある石仏。信長に言わせれば野にある石仏はただの石なのだそうだ。ちなみに信長は一向一揆や延暦寺などを弾圧しており、「仏敵」とされている。


やっと1/2まで登る。天守はまだ遠い。



天守閣跡に到着



天守閣跡。礎石だけが残っている。

安土城は天正四年(1576)に織田信長が築いた城。
丹羽長秀を普請奉行にして、山に「安土寺」があったことから、この地を安土と改名し、 3年後に完成した。「天下普請」の起源として東海・北陸・近畿にいる配下の武将を総動員し、さらに京都・奈良・堺の名工たちを集めて建築され、五層七重の天主閣を擁していた。また、安土山の谷筋には羽柴秀吉や徳川家康、前田利家などの家臣の屋敷が連なっていた。
織田信長がこの地を本拠に決定したのは、東西に陸路が通り、瀬戸内や大阪からの水路の便が良く、尾張からも、京都からも近いことなどが要因と推察されている。
安土城は天正十年(1582)、本能寺の変で織田信長が討たれ、山崎の合戦の後に焼失している。この頃、安土城にいた明智秀満(光秀の女婿)は山崎敗戦の報に触れ、城に放火して坂本城に避難した(『太閤記』)と云われるが、『兼見卿記』によれば秀満退場二日後に出火していることが明らかである。秀満退避後に入城した織田信雄(信長の次男)の手によって焼かれたものだろうとされ(桑田忠親『日本の合戦6』)、フロイスも信雄のことを「知恵が劣っていたので、理由もなく焼いた」と酷評している(『日本史』)。ただ、彼がいかに愚なる人物だとしても城を焼く理由が見当たらず、一揆の手によるものという説などもあり、真相は不明である。
近世城郭の礎となった城。その規模、高度さともに戦国期の城郭としては異論なく日本一。
マサハレさん作成HP「城と古戦場」より引用させていただきました。

天守閣跡から見た琵琶湖方面。なお、築城当時は城のすぐ下まで琵琶湖がきていたが、その後の干拓工事により湖は遠くなってしまった模様。

彦根城

安土城址を後にして国道8号線を30分ほど北上し、彦根市に入る。ここはかつて彦根藩35万石の城下町で栄えた町で、城は築城後、一度も戦争や災害に遭わなかった為、当時のままの姿で現存しており、天守閣は国宝に指定されている。

表門と表門橋。後ろ向きはかみさん。



「廊下橋」と言い、非常時は落としてしまう構造になっている橋。



天守閣へ向かう途中にある「時報鐘」。今でも本当に撞いている。



彦根城天守閣は3層構造で、国宝に指定。初代藩主井伊直政(1601)より井伊直憲までの260年間一度の国替えや城攻めもなく、今は彦根の象徴として多くの観光客が訪れている。



お約束の天守閣内部にある急階段。



天守閣から見た琵琶湖方面。桜の時期は素晴らしいことになりそう。



壁に掛けてあった昔の図。当時は城のすぐ下まで琵琶湖がきていたのが良くわかる。



遠くには雪を抱いた伊吹山が。



城のすぐ外に井伊直弼の像があった。
井伊直弼は1815年に、第11代藩主 井伊直中の14男!として生まれたが、32歳まで300俵の冷や飯食いとして、埋木舎で国学者の長野主善らと暮らしていた。1850年(嘉永3年)時代の要請により長男の後を継ぎ藩主となり、1858年(安政5年)に江戸城に勤務、大老となる。直弼が大老となる5年前、ペリーが黒船を率いて当時鎖国であった日本に開国を迫っていたが、世は開国か攘夷(外国と戦う)か、もめにもめていた時代であった。1858年6月、直弼は「開国」を決断し、アメリカ合衆国や他の国と「修好条約」を結ぶが、これらが世に言う「不平等条約」だったこともあって攘夷派の怒りをかい、1860年(万延元年)3月3日、井伊直弼は江戸城桜田門外で攘夷派の水戸浪士たちに暗殺され、46歳の生涯を閉じる。



直弼の決断が良かったのか、悪かったのかは解らない部分が多いが、もし、開国せずに諸外国と戦っていたら、ひょっとして日本は分割され、外国の植民地になっていたかも知れない。「安政の大獄」などで悪いイメージの強い井伊直弼であるが、そんな直弼に好意的なスポットをあてたのが昭和39年にNHKで放映された「花の生涯」(船橋聖一)であった。写真はその記念碑である。英雄の解釈とは時代とともに変わるものである。

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