2007年 大徳寺・今宮神社・金閣寺・龍安寺・妙心寺


京都と言えば金閣寺とくるのがおきまりのパターン。そこで今回は金閣寺を含む北山の古刹を巡ってみました。

大 徳 寺

大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残している。大徳寺は歴代多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えている。(Wikipediaより抜粋)
大徳寺三門。金毛閣とも呼び重要文化財に指定。安土桃山時代に千利休の木像を置いたことから秀吉の怒りをかい、切腹を命じられたのは有名な話。



塔頭のひとつである三玄院。石田三成ゆかりの寺で、三成の墓がある(非公開)。なお、塔頭は概ね非公開である。



これは公開されている大仙院の玄関(国宝)。方丈も国宝であり、枯山水の石庭が有名なのだが残念ながら写真撮影は禁止。規模は小さいが竜安寺の石庭にそっくり。



総見院という名の塔頭。信長の一周忌に秀吉が建立した寺院。本能寺の焼け跡からは遺骸が見つからなかったため、秀吉は木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。

今宮神社

当社地には平安建都以前より疫神を祀る社があったといわれる。建都ののち平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである。すなわち、一条天皇の御代正暦五年(994)六月、当社地の疫神を二基の神興に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。そしてこの時、京中の老若男女は挙って神興に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれる。これが夜須礼(やすらい祭)である。長保三年(1001)ご霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられた。これが今宮神社の起源である。創祀以来朝野の崇敬を集め、とりわけ徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬は西陣への愛郷の念とともに厚く、元禄七年(1694)には荒廃していた社殿の造営など大いに務められ、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられる。明治29年本社殿を焼失したが、同35年に再建し、その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めている。(京都十六社 朱印めぐりHPより)
大徳寺の北側にある神社。



立派な本殿。



今宮神社から金閣寺まで徒歩で移動するが、千本北大路交差点にあった後冷泉天皇の火葬塚の跡。これも宮内庁の管理。京都や奈良にはこういったものがたくさん残されている。

鹿苑寺・金閣

俗に金閣寺と言われるが、鹿苑寺が正式名。相国寺の山外塔頭寺院のひとつ。もともとは貴族の別荘だったが、3代将軍、足利義満がおおいに気に入り自分の別荘に譲り受け、金閣を中心に庭園を建設し極楽浄土をこの世に出現させたと言われる。義満の死後、遺言どおり夢窓国師を初代住職に迎え、鹿苑寺として開山する。
もともと別荘であったので三門も経堂も法堂も無い。ただ、舎利殿であった金閣だけが突出して有名。なお、金閣は1950年に放火により焼失し、5年後に再建されている。



京都でも1・2番の有名観光地なので外国人の客がひきもきらず。



金閣寺の裏側。おや、舟が無い。

龍 安 寺

もともとは徳大寺家の別荘だったのを、1450年細川勝元が譲り受けて寺とし、妙心寺の義天玄承を開山の祖として創建された禅寺。応仁の乱で焼失するが、1499年に再建、1797年に再度焼失するが、西源院の方丈を移築したものが現在の建物である。有名な石庭もそのときに造られた。

石庭には15の石が置かれ、石の様子から「虎の子渡しの庭」とも言われている。
解説:虎は、3匹の子どもがいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る。つまり、3匹の子虎を渡すのに3往復半するわけである。龍安寺の石庭はこの様子を表わしたものだというわけである。(Wikipediaより)



外国の方がいっぱい。



ちょうど、しだれ桜が咲いており、いい感じ。



勅使門。大徳寺・大仙院のつくりにそっくり。



鏡容池という。北山がきれいに映っていた。



池の岩の上でひなたぼっこをしていた亀たち。

仁 和 寺

仁和寺については こちら
三門。



御室桜はマイナス2分咲き。



五重塔と御室桜

妙 心 寺

双ヶ丘の東、京都市右京区には「花園」という地があります。昔、この地域には公卿の邸があり、お花畑があって、四季折々に美しい花が咲き乱れ、いつしか「花園」と呼ばれるようになっていました。この地をこよなく愛し、ここに離宮を構えて禅の奥義を究めるとともに、常に世の中の平和を願われた法皇さま、そのお方が第95代天皇、花園法皇さまです。法皇は、この花園の離宮を改めて禅寺にされました。これが、臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺のはじまりです。山号は正法山(しょうぼうざん)と称します。開山は関山慧玄(かんざんえげん)、開基は花園法皇です。 
現在の妙心寺は、塔頭46ヶ寺、末寺は日本をはじめ世界各国にわたり3,400ヶ寺余り、在籍僧数は約7千人を数えます。関連機関としては花園大学、花園高校、花園中学校、洛西花園幼稚園などがあります。(妙心寺HPより)

北総門という。



南総門もあり、JR花園駅が近い。



妙心寺三門(重要文化財)



法堂(重要文化財)といい、狩野探幽が描いた龍の天井画が有名。また国宝の妙心寺鐘が置かれている。



大方丈、1654年の建築。



仏殿、この他に寝堂、小方丈、大庫裏、経堂、鐘楼など禅寺として必要な7堂伽藍がすべてそろっている大きな寺。



さらに加えて風呂まである。名前は明智風呂。そう、あの明智光秀の菩提を弔うために建てられた建物。風呂の構造は所謂、から風呂(サウナ風呂)で、昭和初期まで実際に使われていたそうだ。(重要文化財)

OMAKE

妙心寺の塔頭の一つである大法院の庭園。



妙心寺大法院は松代藩主であった真田信之の菩提寺。境内には佐久間象山の墓もある。



なんと、抹茶のサービスあり。且坐喫茶(しゃざきっさ)と言うんだそうだが、おつなものである。本日の予定はこれで終了したが、京都を堪能した1日となった。

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