2007年 大阪城・難波宮跡・三光神社・天王寺公園・一心寺・四天王寺


大阪に行ってきました。大阪の名所はなんといっても大阪城。では、大阪城をスタートに難波宮跡・三光神社・天王寺公園・一心寺・四天王寺を見て回ります。

大 阪 城 (大坂城)

大阪城の魅力は堀と石垣である。これは東外堀。



青屋門から二の丸に入ると内堀と天守が見えてくる。



極楽橋から本丸へ入るが、もともとは非常時脱出用に作られた橋。



大阪城(大坂城ともいう)は1583年、豊臣秀吉により大阪本願寺跡に築城されるが、1615年の大阪夏の陣で焼失する。1629年、2代将軍徳川秀忠により再築城されるが、1665年落雷によりにより焼失する。現在の天守閣は1931年(昭和6年)に大阪市民の熱意により建築された3代目のもの。



天守から望む南側。公園内左にある建物は旧陸軍師団司令部、戦後は警察庁舎や博物館にもなったが、現在は空き家。



西側。内堀・大坂迎賓館・大阪府庁舎などが見える。



北側。淀川の支流の大川と桜の通り抜けで有名な大阪造幣局が見える。



東北側には大阪ビジネスパークがある。以前はここに大阪砲兵工廠があり、第2次世界大戦時の爆撃目標になった。



東側。JR大阪城公園駅や生駒山が見える。



本丸、天守閣の北側にある豊臣秀頼・淀君自刃の碑。余談であるが秀頼の妻、千姫(家康の孫)は大阪城落城時救い出され、本多忠刻に嫁ぎ姫路城で暮らしたことは有名。



大阪城の石垣はほとんど徳川時代に全国の大名に分担させ、作らせたものだが、巨石が多いことで知られている。これは大手門にある巨石。なお、石には工事を請け負った藩の印が刻んであるものがあちこちにある。



南外堀は豊臣時代には無く、江戸時代に作られたもの。大阪冬の陣の後に埋め立てられた本来の外堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。

難 波 宮 跡

大化の改新の後、645年に孝徳天皇は難波に遷都し(難波長柄豊埼宮)、宮殿は652年に完成し、日本最初の本格的な首都の宮殿建築とされる。これは掘立柱、草葺屋根で造られたものであった。
奈良時代神亀3年(726年)に聖武天皇藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させて離宮を設置する(平城京との複都制)。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
(Wikipediaより)

三 光 神 社

大阪冬の陣で築かれた真田丸という砦の跡近くにある神社。



境内に大阪の陣で活躍した真田幸村の像が建立されている。



大阪城への抜け道とされているが、実際は徳川方が掘ったものらしい。

天王寺公園

JR天王寺駅から歩いてすぐのところにある天王寺公園。中之島公園とともに大阪を代表する公園である。園内には動物園や市立美術館などがある。写真は園内にある茶臼山古墳へ渡る橋から見た大阪のシンボル通天閣。なお、天王寺公園は有料の公園(150円)であるので要注意。

一 心 寺

第2次世界大戦では大阪の街は空襲にあい、多くの遺産が焼失したが、この一心寺の門もそのひとつ。焼ける前は大阪城の三の丸から移築した「黒門」と呼ばれる山門であったという。今は写真のとおり、あっと驚く仁王門が建っている。(1997年建築)



本堂などは普通。
1185年(文治元年)法然が仏堂を建て、後白河法皇四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
大坂冬の陣大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大阪夏の陣で最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦し、死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。
小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現住職の作った鉄とコンクリートの斬新な山門1997年完成、彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年完成)など現代建築による施設も見所の一つである。
(Wikipediaより)
通りを挟んで一心寺の北側にある安居神社。真田幸村戦死の地だそうだ。

四 天 王 寺

「大日本仏教最初四天王寺」の碑とともに石鳥居???が西門前に建っている。



四天王寺の歴史は古く、今から1400年以前の593年に聖徳太子が建立した日本最初の寺とされている。法隆寺もそのころの建築だが、1度しか焼けなかった法隆寺と違い、四天王寺は幾たびかの戦火や天災に合い、その都度再建をくりかえしてきた。ちなみに現在の五重塔は8代目で1959年建築の鉄筋コンクリート製である。(内部には5階まで上れる、らせん階段あり)



聖霊院、別名「太子殿」ともいい、法隆寺の夢殿とよく似た建物。



南門から見た仁王門、そして五重塔。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。その草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬりで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある。四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である「若草伽藍」の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
(Wikipediaより)

OMAKE

大阪城は1995年から1997年にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者高齢者団体観光客向けにエレベーターが西側に取り付けられた。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になり1997年、国の有形文化財に登録された。(Wikipediaより)
ご存知のとおり今の大阪城天守閣は鉄骨・鉄筋コンクリート製。しかし昭和6年当時としては非常に斬新で、また石垣に建物の重力をかけないなど工夫されており、内部に博物館をもうけるスタイルは大阪城以後建築された城のモデルとなった。
政府の意志では無く、大阪市民の情熱により再建され、あの空襲にも奇跡的に生き延びた大阪城はこれからも大阪のシンボルとして存在していくのは間違いない。

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