2007年 東福寺・泉涌寺・豊国廟・智積院

東福寺、洗玉潤(せんぎょくかん)。京都一の紅葉の名所


京都巡りもこれで7日目、今回は東山に残る名刹、名所を訪ねてみました。

東福寺 (とうふくじ)

摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成しました。
 工事半ばの寛元元年(1243)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,元応元年(1319),建武元年(1334),延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。
延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ,延元の火災以降実に20余年を経て,再び偉観を誇ることになりました。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。
 仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至りました。
明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失しました。その後,大正6(1917)年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9(1934)年に落成。明治23(1890)年に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など,鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。
(東福寺HPより)

禅堂、重要文化財



三門、国宝



本堂、昭和9年に再建



方丈庭園、鎌倉期の手法により昭和に造園された庭園。



方丈庭園の北庭。彫刻家のノグチ・イサム氏が「モドリアン風の新しい角度の庭」と表した。



開山堂へ行く廊下、途中が通天橋という橋になっている。
通天橋:仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷(洗玉澗;せんぎょくかん)に架けられた橋廊です。1380(天授6)年、春屋妙葩(しゅんおくみょうは;普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆になる「通天橋」の扁額をかかげます。南宋径山(きんざん)の橋を模し、聖一国師が通天と名付けました。その後、第四十三世住持、性海霊見が修造し、長廊を架したともいわれますが、その後も幾度か架け替えられ、現在のものは、1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したものです。
(東福寺HPより)



通天橋の途中にある物見台?の下は楓(かえで)の渓谷となっており、紅葉の頃は大変なことになりそう。



新緑の楓or紅葉の若葉。(当管理人は楓(かえで)と紅葉(もみじ)の違いがよくわかりません)(^^;;
洗玉澗一帯に繁る楓は俗に通天紅葉と呼ばれ、開山聖一国師円爾弁円が宋国より渡来したものとつたわります。葉は三つに分かれ、黄金色に染まるのが特徴で、数は二千本に及んでいます。古来より僧や文人墨客の吟詠をさそった通天橋からの渓谷美、通天橋の春夏秋冬は、今もなお、訪れるものの心を洗い清めてくれるようです。
(東福寺HPより)



開山堂。聖一国師の塔所、重要文化財。
東福寺はJR奈良線、東福寺駅から徒歩15分くらい。京都の社寺にしてはめずらしく無料の駐車場もあるが、紅葉の頃は閉鎖するので、電車・バス・タクシー等で来るのが正解。

泉湧寺 (せんにゅうじ)

東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御 代(健保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改 めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。
大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。帰国後は泉涌寺に於いて戒律の復興を計り当寺を律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が「みてら」と呼称される所以である。
境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉には一段とその美しい姿を映えさせている。
(泉湧寺HPより))

泉湧寺・総門 

東福寺から頑張って歩いたが、途中迷うこと3度、30分くらい京都の郊外住宅地のなかを彷徨った。



仏殿、徳川家綱による再建、重要文化財



霊明殿、天智天皇以来歴代の皇族の御尊牌が奉祀るされている。



泉湧寺は皇室のと関係の深い寺で、四条天皇から仁孝天皇までの皇族の稜がすぐ後ろにある。



これがその稜、月輪稜という。中へは関係者しか入れない。
平日でもあったせいか、泉湧寺は訪れる人もすくなく、東山の奥にひっそりと佇んでいる。無料駐車場もあるので、車でもきやすい。

豊国廟 (ほうこくびょう)

慶長3年(1598)8月18日、秀吉は齢63歳で伏見城で亡くなりました。遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。しかし、元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡と供に、廟は破壊され空しく風雨にさらされていた。明治30年(1897)秀吉の300年忌に際して、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。なお、社殿は明治13年(1880)旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建されている。
(web・kyoto HPより)

泉湧寺から徒歩で豊国廟を目指す途中にJR東海道線をまたぐ橋がある。トンネル左手に見える山が阿弥陀ヶ峰で、これからあの山頂まで登るのだ。



智積院と妙法寺の間の道を山手の方へ向かう。入り口に豊国廟参道の石碑あり。



途中にある京都女子大学を横目で見て、ひたすら坂道を上る。(まるで磔になるキリストみたい?)
写真は廟へ続く石段の下にある拝観料(50円)を入れる箱、当日は無人でほとんどの方はフリーパス。



石段の途中にある門。ここまで347段をクリア。



最後の石段。172段だが、いちだんと急になる。



豊国廟、上にも書いたとおり、大阪夏の陣の後、家康によって破壊されていたが、明治30年に再建された。関西人は家康より太閤はんの方が好きやねん。



石段を下り終わると京都女子大学の間を通る。写真はプリンセスバスといって、京都駅と大学を結ぶ専用バス。一般の人も乗れるようだが、ちょっとね。
523段の石段を汗をかきかき踏破するが、廟の周りには高い木がうっそうと茂っており、京都の街の眺めはゼロ。多少は苦労したご褒美がほしいところだ。

智積院 (ちしゃくいん)

鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、高野山から大伝法院を根来山へ移しました。
 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎*1と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院*2でした。

 しかし、同時に、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を洛北にしるしました。

 そして慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した棄丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。
(智積院HPより)

智積院の門と碑(参観者入り口は別)



講堂へ入る門



講堂、平成7年に再建。



名勝庭園。江戸時代の運敞僧正によって修築された。



比較的新しい寺なので、修学旅行の生徒はこない。



金堂。昭和50年に再建。
家康の狙いは、秀吉を完全に葬り去ることを目的とし、もともとは秀吉の子を祀った祥雲禅寺をそのまま秀吉とは敵対関係にある智積院に、さらには豊国神社を廃し、その敷地に妙法寺を置き、豊国廟参道は日吉神社で塞ぐ等、徹底したものであった。

OMAKE

クイズです。これは何でしょう?























答えは東福寺に残るトイレなんです。

室町時代に建てられた便所で、東司(とうす)と言います。何百人という修行僧の排泄物はよい肥料となり、京野菜の栽培に貢献したと伝えられています。写真は東司の中に掲げられていた当時の想像図。なお、この建物は重要文化財!に指定されています。

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