2007年 馬籠・三留野宿(南木曽町)・桃介橋

2007年7月29日、大坂の帰り道、馬籠に寄ってみた。5年ぶりに来た馬籠は相変わらずの賑わいを見せていたが、2年前に平成の大合併で長野県山口村から岐阜県中津川市に越県合併し、現在は岐阜県にある。

馬籠宿の高台に、恵那山がよく見える展望所のようなものが造られ、そこに越県合併記念碑が建てられていた。長野県旧山口村で行われた住民投票の結果、記念碑にあるとおり、2005年2月13日に岐阜県中津川市と合併し中津川市馬籠となる。



記念碑のある場所から見た馬籠宿、建物がある場所が入口。



旧中山道の石畳道。この道を皇女和宮の一行も通ったのだ。



宿入り口に建てられた「高札」、「一揆のくわだてを通報した者には銀100枚、キリシタンの通報は銀500枚」だそうだ。



気のせいか、宿の至る所がきれいになったような気がする。



水車家に向かう石段にも手すりが。



無料で停めた駐車場。木陰で最高だった。
峠を越えると、長野県南木曽町であるが、道路は岐阜県側の方がはるかに良い。車道はもちろん、遊歩道(旧中山道)も良く整備されている。さらに駐車場は無料(妻籠宿の駐車場は有料)、そして欧米やアジアからの観光客も大勢来ており、岐阜県や中津川市が馬籠宿観光に力をいれているのが実感できた。このあと、時間があったので南木曽町にある「桃介橋」と「福沢桃介記念館」に立ち寄る。

桃 介 橋

大正11年9月木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(現在の関西電力の前身)の創業者である福沢桃介によって読書発電所建設の資材運搬路として架設される。元々は「桃の橋」と呼ばれていたが、いつのまにか「桃介橋」と呼ばれるようになってしまった。
昭和25年に村道になるが、下流にコンクリート橋ができ、老朽化が進んで昭和53年以降通行禁止となり廃橋寸前となっていたが、保存・活用の声があがり、平成5年に付近一帯の公園整備に併せて復元され、平成6年には国の重要文化財(近代化遺産)に指定される。



全長247m、幅2.7m 木製補剛桁を持った吊り橋としては日本有数の長大吊り橋。中央に2本の黒い筋があるが、元々はトロッコを通した橋なので、その線路をイメージしたもの。



塔の部分にはレールがそのまま残っている。


桃介橋から見た木曽川と南木曽町(三留野(みどの)宿)。トラックが走っているのが国道19号線。この後、福沢桃介記念館にも寄るが、見学中に夕立となったため写真はありません。あしからず。

OMAKE

電力王・福沢桃介について

福沢桃介は明治元年、埼玉県生まれ。旧姓は岩崎。慶應義塾時代に福沢諭吉の養子となりアメリカに留学、鉄道学などを学ぶ。帰国後福沢ふさと結婚、北海道炭礦鉄道に入社し、6年間サラリーマン生活を送る。結核を患い療養生活を送るが、療養中に、アメリカ留学で覚えた株の売買を行って財を成し、電力事業に乗り出す。
明治43年、桃介は名古屋電灯会社(現在の中部電力の前身)の常務取締役となり、木曽川の発電所建設に着手する。大正8年、賤母発電所を皮切りに、大桑、須原、桃山、読書発電所などをわずか7年ほどの間に次々と建設する。その後5大電力資本の一つである大同電力(現在の関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立し、社長となる。この事により桃介は「日本の電力王」と呼ばれるようになった。
その後、愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)、大同特殊鋼、日清紡績などの企業を次々に設立、代議士にもなったが、昭和3年に実業界を引退し、昭和13年、東京で没した。
桃介に関するエピソードで最も有名なのが、日本女優第1号と言われる川上貞奴とのロマンス。三留野宿の対岸の地に宿泊所兼別荘(現在の福沢桃介記念館)を建築し、自ら発電所建設現場の陣頭指揮にあたるが、貞奴も桃介のパートナーという立場で、しばしばこの宿泊所兼別荘を訪れ、大井発電所の建設工事にあたっては怖がる作業員を尻目に桃介と2人で谷底へ降りる工事用ゴンドラに乗ったり、桃介が不在の時はインディアンというバイクに乗って工事現場の視察に行ったそうだ。
川上貞奴の生涯については1985年にNHK大河ドラマで放映された「春の波濤」で紹介され、貞奴は松坂慶子が、福沢桃介は風間杜夫が演じた。

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