京都市蹴上にあるインクラインの桜(08・3/29現在))
2008年3月29日、またまた京都へ。有名どころは昨年中にほとんど行き尽くしたので、京都市営バスで東山方面のレアな寺社を巡る。一旦京都駅に戻ってから昨年歩いた哲学の道へ向かい、銀閣寺から永観堂・南禅寺へ歩く。この日京都は花冷えの一日で、桜の花の満開には、あと3日~4日という所だった。
方 広 寺
三十三間堂の向かいに京都国立博物館があるが、その裏の方へ歩いて行くと豊国神社となる。そのすぐ隣にあるのが方広寺。もっとも寺といっても、この鐘楼くらいしか残っていない。昔あった大仏殿の跡地は豊国神社になってしまった。
国家安康・君臣豊楽の文字が豊臣家の繁栄を願い、家康を呪う文字だと因縁をつけられ、大坂の陣に突入したのは有名な話。
方広寺は天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立された。大日如来、大黒天を祀る。天正14年(1586年)、秀吉により奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年(1595年)に完成した。東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったという。また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われた。しかし慶長元年(1596年)に地震により倒壊した。
その後豊臣秀頼により再建されたが、寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失した後は同様の規模のものは再建されなかった(大仏および大仏殿の建造と焼失の経緯は「京の大仏」の記事を参照)。
豊臣氏当時ものとしては梵鐘が残っているが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、豊臣家滅亡のきっかけになったとされる(単に大坂の役の口実を家康が作りたかっただけという説もある)。この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。
(Wikipediaより抜粋)
豊 国 神 社
方広寺の大仏殿跡に建てられたのが、この豊国神社。この唐門はもともと伏見桃山城にあったもので国宝。
豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、神体は新日吉神社にひそかに移し祀られた。
1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。
(Wikipediaより抜粋)
六 波 羅 蜜 寺
豊国神社から北へ徒歩10分くらいのところに六波羅蜜寺がある。寺の裏にある宝物殿には国宝の十一面観音立像をはじめ空也上人像など14の重要文化財がある。(撮影禁止)
踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。
空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。
(Wikipediaより抜粋)
これが空也上人像のポスター。口から南無阿弥陀仏の六仏を吐き出している。矢沢永吉のCD「ゴールドラッシュ」を思い出す。
鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。
(Wikipediaより抜粋)
建 仁 寺
六波羅蜜寺から北へ、国道一号線・五条通りを横断してしばらく行くと建仁寺。これは勅使門(重要文化財)
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西(ようさい、えいさい)がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。
創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。
建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。
(Wikipediaより抜粋)
これは三門、望闕楼(ぼうけつろう)とも言う。大正12年に静岡県の安寧寺から移築する。
法堂(はっとう)、1756年に建てられたもの。
法堂の天井には創建800年を記念して小泉淳作さんの双龍図が2002年に描かれている。
そしてハイライトは風神雷神図屏風(国宝)。俵屋宗達による作品であるが、建仁寺にあるとは知らなかった。
哲学の道・南禅寺・インクライン
清水坂から市バスに乗り一旦京都駅に戻って昼食。再びバスに乗り終点の銀閣寺を目指す。道路は五条坂付近から渋滞がひどくなり銀閣寺まで1時間ほど要した。銀閣寺へは寄らず昨年も歩いた琵琶湖疎水に沿った哲学の道を歩く。
桜は場所や木によっては咲いていたが、全般的には5分咲きといったところ。
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観光客は若い人が多かったが中にはこんなシーンも。
雪柳もきれいに咲いていた。
南禅寺三門。
水路閤、これも疎水の一部。
映画やテレビドラマの撮影でよく使われる場所。
南禅寺から10分ほど歩くと琵琶湖疎水の船を運ぶために造られたインクラインに到着。ここも桜の名所であるが日当たりが良いので八分咲き。
左側の道は山科へ続いている道。ちなみにここは蹴上といい地下鉄の駅もある場所。
インクライン終点近くには琵琶湖疎水記念館もある。(下の写真右上の建物・入場無料)
観光シーズンのみ屋形船が運航している。琵琶湖疎水については以下のとおり。
現在は水道用水としての用途が最も多くなっているが、完成当初から水力発電(営業用として日本初)が行われ、その電力を利用した日本初の電車(京都電気鉄道→京都市電)が開業するなど京都の近代化に貢献した。また、水運にも用いられ、琵琶湖(大津)と京都、京都と伏見・宇治川を結んだ。高低差の大きい部分にはインクライン(傾斜鉄道)と呼ばれる線路が敷かれ、船を線路の上の台車に載せて移動させた。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインでは一部の設備が静態保存されており、その周囲は桜の名所としても知られる。
なお、現在でも無鄰菴や平安神宮神苑をはじめ、東山の社寺等の庭園の水としても利用されている。国の史跡に指定されている。また、疏水百選の一つである。
(Wikipediaより抜粋)
比叡山がよく見えた
京都タワー
午後4時頃、京都市美術館前から京都駅行きの市バスに乗ろうとしたが超満員のため一計を案じて逆コースのバスに乗り再び終点の銀閣寺へ。一端バスから降りて京都駅行きとなった同じバスに乗り込む。東大路通り手前まではスムーズだったが東大路通りに入ったとたんバスはストップしてしまう。片側2車線なのだが、なんとバスが数珠つなぎとなるバス渋滞現象が発生。5条坂を過ぎてやっと流れ出したが結局銀閣寺から京都駅まで1時間45分かかってしまった。
6時近くになって京都駅前へ到着するが、京都もこれでしばらく来ないので初めて京都タワーに昇る。
京都タワーホテル1階にある券売機で770円の入場チケットを購入し高速エレベーターに乗る。なお、写真はタワーを降りた後に撮影。
京都タワー(きょうとタワー)は、京都駅烏丸中央口前に一際大きくそびえ立つ展望塔。京阪電気鉄道のグループ会社である京都タワー株式会社が運営している。台座となっている京都タワービルの高さを加えた全体の高さは131m。1964年12月28日開業。設計は、建築家山田守。構造設計は京都大学工学部建築学教室による。タワーの独特な姿は、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。ローソクをイメージして建設されたとよく言われるが、これは誤り。(Wikipediaより抜粋)
だ、そうだが、やはりどう見てもローソクにしか見えない!
地上100mにある展望台から見た京都の街、これは西南方面。駅ビルがよく見える。はるか彼方は高槻・大阪方面。
東南方面、駅ビルは伊勢丹デパート、京都グランビアホテル及び京都劇場と一体化しているが京都劇場が眼下に見える。なお、いつも昼食に寄っているレストランはこの京都劇場の2階にあるITALICOという名の洋風レストランだが、昼食バイキングが1200円位(平日は1000円位)なので、京都Walkingでお腹の空いた方にお勧め。
東方面、東山の中腹に清水寺が見える。
東北方面、比叡山が良く見える。このころからだんだん街の灯りが輝いてきた。
北方面、烏丸通りが東本願寺前で迂回しているのがよく解る。なお、東本願寺の本堂は現在修理中で大屋根が覆っている。
西方面、嵐山や保津川がある。山の向こうは亀山。
展望台はこんな感じ。若い皆さんが多かった。
スローシャッター(1/2秒)のためブレてしまったが、今日から清水寺のライトアップが始まった。