2008年 美濃路を往く

−犬山城・杉原千畝記念館・国道418号線−

美濃加茂市から国道418号線にて木曽川を遡る


2008年1月7日〜8日に大阪へ。帰路、米原ICで名神高速を降り、国道21号線を美濃加茂市まで移動するが、ただ走るだけでは面白くないので、ちょっと寄り道。寄った先は犬山市にある国宝犬山城、そして八百津町にある杉原千畝記念館。ついでに八百津町から木曽川渓谷沿いを遡ってみることにした。地図上では国道418号線が恵那市まで細々と続いているのだが、丸山ダムから3kmほどで道はとぎれていた。

犬 山 城

 犬山城は木曽川南岸標高約40メートルの崖の上にそびえ、天守は全国の現存するもののなかで最も古いとされています。地形的にみると、丘陵と周囲の平地をあわせた「平山城」ですが、天守の背後の木曽川が自然の要害となっているのが見て取れます。犬山城は天文初め頃、織田与次郎信康によって創建されたとされていますが、以後、とくに木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の重要な拠点として重きをなしてきました。
(財団法人 犬山城白帝文庫HP より抜粋)
 なお、織田与次郎信康とは織田信長の叔父で、後に斎藤道三の稲葉山城攻めで戦死している。
天守閣へと続く石段、信長や秀吉もこの石段を登ったのだろうか。



国宝犬山城天守閣3層に見えるが実は4層。



丁度、寒桜が咲いていた。



明治4年に廃藩置県により廃城となるが、この絵は廃城前の絵。櫓や門などは取り壊され、市内の寺の門などに再築される。



天守閣からの眺め、その1 犬山市方面



その2 木曽川上流方面



このあたりは木曽川の鵜飼いで有名な場所、川石に水鳥が戯れていた。



その3 美濃加茂市方面



その4 ライン大橋と伊木山
織田信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となるが、織田信長との対立の末に信長によって永禄7年(1564年)に攻め取られる。以後、池田恒興織田勝長などが城主を務めた。本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となるが、天正12年(1584年)に突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われた。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。
豊臣時代には石川備前守が城主となった。備前守は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。慶長6年(1601年)に小笠原吉次が、慶長12年(1607年)に平岩親吉が城主となる。親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、元和3年(1617年)に尾張藩付家老成瀬正成が城主になり、天守に唐破風が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。
明治の廃藩置県で廃城となったが、明治24年(1891年)の濃尾地震で天守の一部や櫓・城門などがこわれたため、明治28年(1895年)に城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。平成16年(2004年)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月に財団法人「犬山城白帝文庫」に移管されている。
(Wikipediaより抜粋)
ということで、何度も主が変わった城だが、江戸時代に鳴瀬家9代の居城になったのが幸いして奇跡的に天守閣だけが残った城である。残念なことに廃藩置県により城門や櫓は壊されてしまったが天守閣はほぼオリジナルなので姫路城、彦根城、松本城と並んで国宝に指定されている。

杉原千畝記念館

次に向かったのが美濃加茂市の隣の八百津町。木曽川渓谷沿いののどかな町である。何年か前にマスコミで取り上げられ話題となった元リトアニア領事代理の杉原千畝(すぎはら ちうね)氏の出身地。杉原氏を有名にしたのは以下の出来事による。
1940年(昭和15年)夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。ソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先オランダ領アンティルへの通過ビザを求めて殺到した。
1940年7月18日、千畝は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」というものであった。新内閣の発足後、外務大臣 松岡洋右に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日、松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。それは千畝にとっては事実上の最後通告であった。また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。
こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、千畝は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、千畝と妻・幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚。しかし、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのを止めてしまったと言われている。その為、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明証が発給されたと言う説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、杉原は職権により「出国のための領事特別許可証(通過ビザと同様の内容。ビザより発行要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い)」の発行を行い、ソ連による自身への退去指示の期限ぎりぎりまで更に多くのユダヤ人を出国させた。領事特別許可証による出国者は多数に上るが、人数は定かではない(発給記録が残っていないため)。領事特別許可証の発行はベルリン行き列車の出発寸前までホームで続けられた。
(Wikipediaより抜粋)
これが杉原千畝記念館。恐らく八百津町の町おこしで建てられたものだろうが、平日のせいもあり訪館者は私1人。



「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの育てたバラ。2005年6月にアンネのいとこのベルント・バディ・エリアス氏によって植樹された。



記念館の隣には山荘もあったが、こちらはパス。

杉原千畝により通過ビザを得たユダヤ人達のその後もまた苦難の連続であった。
国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀港へ上陸(敦賀はこれ以外にも幾度も難民を受け入れており人道の港と呼ばれた)し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着く。そのうち、1000人ほどはアメリカパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。上海にもユダヤ人難民の大きなコミュニティがあり、そこでユダヤ人たちは日本が降伏する1945年まで過ごすことになる。一方、彼らが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年にドイツの猛攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされている。またソ連領内でも多数のユダヤ人難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ亡くなった。
一方、太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカへの渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった(前述)。上海ではドイツを真似てユダヤ人ゲットーが作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。環境はヨーロッパのゲットー同様苛酷なものであったが、当然ながら日本人中国人はドイツのような峻烈なユダヤ人迫害は行わなかった。ただ、終戦間際には米軍機による空襲で数十名が死傷した。
また、千畝の後半生も波乱に富んでいた。
リトアニア退去後、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年にチェコスロヴァキアの在プラハ日本総領事館、1941年(昭和16年)に東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館、その後1946年(昭和21年)までルーマニアブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。第二次世界大戦及び太平洋戦争の終結後、在ブカレスト公使館で家族と共にソ連に身柄を拘束され、1年間の収容所生活を送る。
1947年(昭和22年)に日本へ帰国、神奈川県藤沢市に居を据えるも、外務省からリストラに伴う解雇通告を受ける(リストラは名目上で、実際はビザ発給の責任を負わされた形とする説もある。後述)。
外務省退官からしばらくは、息子を白血病で失い、義理の妹も亡くなるなど家族の不幸に苛まれる。その後は東京PXの日本総支配人、米国貿易商会三輝貿易ニコライ学院教授、科学技術庁NHK国際局など主に語学力を活かした職に就き勤務した。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。1968年(昭和43年)夏、ビザの発給を受けた元ユダヤ人難民の一人ニシュリと在日イスラエル大使館で28年ぶりに再会。翌1969年(昭和44年)、イスラエル宗教大臣より勲章を受ける。1975年(昭和50年)、モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われる。
1986年(昭和61年)7月31日心臓病で死去。享年86。なお、千畝の汚名が晴れたのはそれから5年後のことであった。
2005年10月11日、終戦60周年記念ドラマ「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」として読売テレビで製作され、日本テレビ系列で放送された。この放送後、杉原の名は改めて知られることとなった。
(Wikipediaより抜粋)

国道418号線

国道418号線は岐阜県美濃加茂市と恵那市を結ぶ木曽川渓谷沿いにある道であるが、国道とは名ばかりの林道をそのまま舗装したような狭隘な道。小さな標識は「潮南方面」とあり、聞いたことがない地名だったので迷ったが、だめだったら引き返せば良いと判断して車を進めた。
木曽川は関西電力が発電用に開発しつくされた川。左後方は丸山ダム。旅足橋という吊り橋がかかっていた。



吊り橋の上から右手の支流を眺める。



丸山ダムから3km地点で、いきなり国道は通行止め!ここまで何の警告看板無し!後で、岐阜県のHPを調べると災害のため2年以上前から全面通行止め。当分の間というのは何ともうまい表現だ。



しかし、山の上に向かう道は続いているようなので、かなりの迂回を覚悟して行ってみることにした。南戸、潮南、篠原、野瀬、河合など恐らく二度と通ることのない山間の集落を通過し、30分ほどの迂回でやっと恵那市近くの木曽川まで戻れたが、久しぶりに山道を走った気がした。

OMAKE

今回の大坂行きはいつもより燃費を重視した走りにより往路が14.97km/L! 復路が13.26km/L というものであった。高速道路を走るトラックや一般車も以前より速度は控えめで、100km/hで車がどんどん抜ける状態。
なんとなく道も空いており、スムーズに走れた結果が好燃費になったと思われるが、ガソリン価格が150円/Lを超える状況では、喜んでいられない心境である。

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