A73について

1973/7〜1982/6/25

碓氷峠・信越線第3橋梁にて

1973年7月、東京の西○○三菱自動車販売より購入したMITSUBISHI A73 とは三菱ランサー1600GSLのことです。当時は、あの一世を風靡したTE−27&37すなわちトヨタカローラレビン&トレノが、マニアの間でもてはやされていた時代でそのレビン・トレノ対策として三菱自動車が世に送り出したのが、このランサー1600だったのです。全長3960mm 全幅1525mm 全高1360mm 車両重量815kg という小さな2ドア乗用車です。
ちょっと篠塚健次郎選手のまねをしてみました



最高出力100ps/6300rpm(グロス) 最大トルク14.0kg/4000rpm とたいしたことのないエンジンですが、フラットなトルクで扱いやすく、815kgの軽い車重と小さいボディーが、ニュートラルステアの切れのいいハンドリングと相まって、初心者であってもドリフトコントロールが可能!という、たいへん扱いやすい車でした。
小さな車にしては、ボディーや足回りは頑丈で、実はある冬の日、凍った道に足をとられて田圃に横一回転してつっこんだことがありましたが、窓ガラスも割れず、ドアもきちんと開き、なんと自力で道路まで戻りました。この車には、語り尽くせないほどの思い出がありますが、ある雑誌に乗せたレポートをここで、ご紹介します。

ラリーレポートその1


プロローグ

ラリーとは不思議な競技である。最後に順位がきまるのだから当然競争相手がいるのだが、競技中にその相手にお目にかかることはまれである。ハイアベレージでがんばっているときに自分より速いやつに追い抜かれるか、逆に遅いのを抜くときでもなければまず相手には合えない。もっとも、たまに団子のようにつながってしまうこともあるが、そんなときはたいてい何かアクシデントがあったか、アベレージが極端に低いときであって、とても相手の走りを見ることはできない。ところが、競争相手を直接見ることはできなくても、指示速度どおりに進むひとつの影がはっきりとそこに存在する。つまり、ラリーとは自分の影を追いかけるモータースポーツである
Dr.I とラリーに出ようと思った理由については、これを話すと1ページ以上になってしまうので、やめておくが、いかにすればもっと安全に、かつ速く走ることができるかを実際に体験してもらおうと思ったこと(エヘン!)と、ちょうどいいナビゲータがほしかったという二つの理由でもって Dr.I に白羽の矢を立てた次第である。
仕事の都合上あまり遠い所へは行けないので、長野近辺のラリーにしようと思っていたところ、ヨコハマタイヤ秩父営業所オープンラリーが開催されるということで、さっそく申し込む。車は7月に購入したランサー1600GSL、足回りはノーマルだが、タイヤをBS−RD701・165SR13に変更し、ライトはシビーをフル装備、内装はハルダツインマスターにスミスの12時計、計算は円盤でやることにした。

STAGE−1

1973年10月20日スタート地点のヨコハマタイヤ秩父営業所にいってみるとまだ2〜3台の車しかきておらず、申し込むとゼッケンは10番と決まった。 ガスを満タンにし、ついでに腹のほうも詰め込み、再度スタート地点に行ってみると20〜30台のラリー車が集まっており、気分は最高に盛り上がる。
7時30分よりドライバーズミーティングがあったが、とくにコースに変更は無く、危険な箇所が2・3カ所あるとのことでミーティングは終わった。
8時01分いよいよ1号車スタートである。フリースタートであるので、皆スタートラインでトリップメーターを”0” に戻してゾロゾロとスタートしてゆく。我々のランサーの前は赤いフェアレディ240Zであった。
私にとってラリーにエントリーするのはこれで4回目であるが、前3回はナビゲータで、ドライバーは今回初めて。Dr. I はなにもかも初めてというフレッシュコンビである。

STAGE−2

コースは秩父街道を北上し、途中で左折、峠を超えて鬼石へ、さらに北上し藤岡・高崎を過ぎR18の橋を渡ってY字を右へとった。つまり、榛名方面である。榛名町のはずれがOD(オドメーター・チェックポイント:距離計測点)であり、その先3Kmはノーチェックとなっているため3Km先まで進み、道の脇に車を止めしばらく休憩する。
休憩中に Dr.I と一緒にコースの検討をすると、どうやら榛名山を中心に林道を登ったり降りたりするらしいことがわかった。タバコを一服したり、車の外へ出て小用などすます。空は満天の星であった。そうこうしているうちに、いよいよ再スタートの時間がせまってきた。脇を若いゼッケンの車が通り過ぎる、いよいよ戦闘開始である。ヘルメットをかぶり、シートベルトを締めると、体中突き抜けるような緊張感におそわれるのを感じた。
実践のラリーでは決してオンタイムどおりの走りかたはしない。我々は30秒先行して再スタートした。アベレージ(指示速度:以降アベという)は47.8Km/hである。道は榛名湖へ登るメイン道路であり、完全舗装であったが登り詰めるにしたがってだんだん勾配もきつくなり、ヘアピンが連続するようになった。30秒の先行タイムがちょうど無くなったころ前方に1CP(チェックポイント:競技のオフィシャルがいて、通過タイムを計測してくれる:以降CPという)発見!時計を見ると秒針が真下にさがったところでジャストオンタイム。まずまずのスタートだ。

STAGE−3

1CPがちょうど峠で、そこから少しくだって榛名湖の脇を過ぎ、500mほどすすんで右折、唐松林道である。ランサーはいよいよ待望?のダートへ突入する。
アベは32.8Km/h(以降Km/hは省略)で路面はそんなに悪くないのだが、下りの砂利道であり勾配もけっこうあるため、あまり飛ばすことができない。突然うしろからライトの束!ゼッケン6の赤いランサーである。ミスコースでもしたのか我々の脇をすり抜けてからタイヤから煙をはく激しいコーナリングで前方へ消えていった。カー雑誌で見るようなカリカリのワークスマシンであるからこそであろうが、まったく上には上がいるものである。
それにしても、ミスコースはいけない、とかなんとか思っているうちに舗装路になってしまった。いけどもいけどもノーチェック。舗装路の32.8はまったく始末におけない。地元の軽トラックがびっくりした様子で次々とラリー車を追い抜いてゆく始末である。結局箕郷町までくだりきってしまい、町の中をぐるっと左折し、こんどはいま下ってきた榛名山へアタックしようという訳である。コースは榛名〜箕郷林道であった。林道の入り口に2CPがあったが、もちろんオンタイム。この林道は完全な全線ダートであるが、路面は最高で摩擦係数も高いため、思い切り飛ばすことができる。
Dr.I がころがるようにCPからチェックカードをもらって車の中へ入ると寸秒をおかずスタート。ストレートのダートをおそらく80km以上で飛ばす。アベは40.9であるが、ショートチェックも考えられるので、スタート後はこのくらい飛ばさねばならない。

IMPRESSION

ランサーに搭載されているサターン1600は 最高出力100ps/6300rpm、最大トルク14kg/4000rpmのフラットトルクエンジンである。タコメータはとんがりが4000rpmであるため、それより針をおとさないようギアは常に最大トルクを引き出すポジションを使用しなければならない。
いちばん使用するセカンドギアでは4000rpmで50km、6300rpmでは90kmまでひっぱることができる。それだけ高速型のギア比であるので、高速道路のような道ではいいのだろうが、ダートではちょっと苦しいところである。
ヒール・アンド・トウでギアを2速から1速におとし、コーナーに突入する。強烈なブレーキで車重のかかった前輪を最初ちょいと反対側に切り、その反動で思い切りコーナーのインをねらってハンドルを切る。ランサーのハンドリング特性は基本的には弱アンダーであるが、オーバーステアへの変化もけっこう急である。アクセルを思い切りふかし、テールをスライドさせ、カウンターステアをコーナーの反対側に切りながら真横になったままでコーナーをすり抜けてゆく。

STAGE−4

途中にCPは無く、道はだんだんきつくなり、ヘアピンの連続。前半にためて置いた貯金はだんだんと無くなっていった。車は横をむきっぱなしである。ノンスリップデフがついていればもうすこしタイムをかせげるのだがと思っているうちに3CPにどうやらギリギリのタイムで滑り込んだ。
再び榛名湖の脇を通り、こんどは榛名有料道路を伊香保へと下った。真夜中の伊香保温泉街を左折して、しばらく行ったところでミスコース!T字路左折を道なりに右折してしまったのだ。すぐ気が付いて引き返したのだが、車1台ギリギリの細い林道のためタイムが取り戻せず4CPでついに初の減点をくらう。
いったん中之条町に出て、少し先を左折、榛名林道に突入する。アベは43.7。2台ほど追い抜いたところから道はだんだん荒れてきた。沢ぞいの細い林道なのだが、ときどき赤ん坊の頭大の石が道の上に顔を出している。なにせ下回りノーガード、足周りノーマルであるから、こんな道はお手上げである。速度を少し落とすと後ろに速そうなギャランにぴったりとくっつかれてしまった。道を譲りたくてもとてもそんなスペースは無く、”あー、これは限界だ”と思った瞬間車の下で大音響!!!ただちに停車してギリギリでギャランをパスさせ車の下を点検すると、なんとメインマフラーが石にぶちあたり、半分ほどつぶされているではないか!それだけならまだしも、エキゾーストパイプの前部がはずれそうになっている。
もし、これがはずれて、走行中地面に突き刺さったらどういうことになるのか。調子に乗りすぎて常に完走している俺もついにリタイアかとため息をついたとき、すぐ上でホイッスルの音!なんと6CPはそこから50mほど先にあったのである。結局6CPに4分遅れで入り、先の広場で車を止め、ジャッキアップして針金でマフラーをボディーにくくりつけた。手でゆすってみるとなんとかもちそうなので、これから先は減点覚悟でダートはゆっくり走り、完走だけはしようということになった。
倉淵村から再び榛名町へ出てガスチャージする。時計はもう1時を回っており、もう星は見えなかった。どうやら雨になりそうな空模様である。

STAGE−5

8CPは唐松林道の上にあったがアベ46をなんとかこなし、オンタイムではいる。またまた、榛名湖の脇を通り、こんどはさっき登った榛名〜箕郷林道を37.8で下った。しかし、箕郷まではおりず、途中のへんなところを左折し、雨水でギタギタになった道を通ったりして、再び伊香保に出て中之条へ向かう。
中之条から先はまたまたあの憎き榛名林道である。アベは49.5!!しかも秒計測ときている。あきらかにこのラリーの勝負所なのだが、道が道なので、もーノロノロ運転で行く。結局CPには7分遅れで入るが完走第一なのでしかたがない。4たび榛名湖の脇を通り、これまた唐松林道を下る。途中とんでもない所にCPがあり、だいぶ多くの車が早着減点をくらうが、我々はノロノロ運転のおかげでオンタイム。こうなると、ちょっぴり欲も出てきた。
やっと榛名山から解放されて高崎〜藤岡を過ぎ、秩父方面へ向かう。もう時計は5時をすぎ雨がしとしとと降り出した。もうすぐ夜明けである。Drはと見ると、さかんにタバコをふかして、円盤で計算をしている。はたから見た目ではとてもかけだしのナビには見えない。
鬼石を過ぎるころから重苦しかった空は白々と明けてきた。最後のCPは城峰林道の上にあった。完全舗装道路であったので、思い切り飛ばし見事オンタイム!夜明けのすがすがしい空気を吸って一路ゴールの長瀞へ向かった。
10月21日6時45分、盛大な歓迎?をうけて我がランサーは破れたマフラーから、これまた盛大な排気音をとどろかせながらゴールしたのであった。
成績は71台出場中16位、完走は45台であった。

エピローグ

石油ショック以降モータースポーツに限らず、車はとかく資源の浪費だとか、公害の発生源だとか白い眼で見られがちであるが、車が好きな者にとっては、これはなにものにも代え難い男のロマンなのである。そして、このせちがらい世にあればこそ、なおさらそれは求められるのであり、この世にロマンを求める男たちが存在する限り、その灯は永遠に消えることはないであろう。



写真左が Dr.I 右はワタシ(当時はスマート!!!)

1982/6/25、家庭の事情により4ドア車が必要となったためEA175A(ランサーターボ)に乗り換えました。9年間、語り尽くせないほどの思い出を残してくれたA73くん、ありがとう。

2002/9/1 AM4:56 がんのため Dr.I こと今井澄先生は亡くなられました。(享年62才)まだこれからという時に残念です。私にとっても青春の1ページが閉じられたような気がして寂しさを感じてなりません。心よりご冥福をお祈りします。

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